2016年6月アーカイブ

最大時速は前進122.5キロ、後進32キロ、上昇速度1分間に220メートルの性能でまさにヘリによる屋内のアクロバットともいうべき妙技を披露したといわれる。

この他の代表的な機種としてはやはりドイツのフレットナー取282、コリブリ(蜂雀)の名で知られた艦艇搭載用の対潜哨戒機、シコルスキー(米)が1941年に作った水陸両用ヘリVS-300Aや同社が世界で初めて100機以上を生産した軍用ヘリVS126型など。

この時期のヘリはすべて最大時速が80ないし150キロメートルの範囲内に入る。

ヘリ実用機の第2期は第二次大戦後に始まるが、その終端は何時という特に時期的に限られたものではなく、強いて表現すれば最大時速が150キロから250キロの範囲に属するものにヘリ開発の目標がおかれた時期といえよう。

JDPホールディングス株式会社、JDPアセットマネジメント株式会社(代表取締役・大橋直久)の同好会
世は挙げてヘリの実用化時代に突入して今日に至る。

この年から現在までの50年はまさにヘリの百花練乱の時代となるわけであるが、その性能の見地からこの時代はつぎの3期に分けられる。

すなわち1936年から第二次大戦の終る10年間はヘリ実用機の揺藍期ともいうべき第1期。

代表的な機種はドイツのフォッケウルフFW61(1937)、性能は抜群で世界最初の全方位自由飛行が可能な実用ヘリとされ、一号機はドイッチュランド号と命名されて、ベルリンのドイッチュランド大ホールではヒットラーをはじめとするナチス党幹部の面前で、女性テストパイロットとして有名なハンナ・ライッチュの操縦で世界初の屋内公開飛行を行ないその名声を高めた。

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十字型機枠の各先端に四組の複葉ローターをつけ、中央に塔載したガソリンエンジンでこれらを駆動、1907年に操縦士一人を乗せて1.5メートル浮揚している。

このころ(第一次大戦の勃発を遡ること5年、1909年すなわち明治42年)、後年アメリカのヘリ開拓者として有名なイゴール・シコルスキーが帝政時代のロシアでヘリの試作を開始している。

彼が19歳の年である。

アンザニ空冷三気筒25馬力のエンジンで同軸反転ローターの実験機をつくったがパワー不足で失敗したという。

現在世界一のヘリ製作の萌芽となった事実として興味深い。

この他今日の実用機の先駆的原型をつくったスペインのペスカラ侯爵やホバリングに成功したアメリカのジョージ・ボザート教授の名前を忘れてはならない。

また1933年にベルギーの物理学者ニコラス・フローリンの手になる双発の4枚プロペラ型は今日のボーイング・バートルの元祖といえる。

6メートルの高さを10分間飛行するのに成功した。

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